もう、今では忘れ去られているが、中学一年生の頃に見た映画である。
「動物と子どもたちの詩」。
本来のタイトルは、「動物と子どもたちに祈りを」。
カーペンターズの唄った主題曲は、オリジナルのタイトルのままであったかもしれない。
まだ、ベトナム戦争が続いていた(しかも、その破綻が徐々に露わになっていた)時代のアメリカで作られた映画である。
「男らしい男をつくる」みたいなふれこみのサマーキャンプを舞台にしている。
サマーキャンプというのは、親元を離れた子らを自立心のある子として育てる商売のようである。
(故三原順さんの「はみだしっ子」の一作、「カッコーの鳴く森」は、この映画を意識しているかもしれない。)
そこで割りふられたグループから、追い出された子どもたちを描いている。
1970年代初め、字幕には「アブノーマル」という文言があった。
中学一年の僕はそんな言葉は知らず、けれど何か厭な気配を感じた。
「アブノーマル」だから、「ここに居てはならない」と責められる子ら。
それぞれがグループを追い出された彼らは、「ダメな子の集まり」であるグループを新しく作らされる。
そこの教官は、実にいまいましげである。
「なんでこんなクズを担当しなければならないんだ」という姿勢を隠そうとしない。
そんな中で、ますます「自分なんかいてはいけないんだ」という気持ちに追いやられていく子ら。
キャンプの教官は、ある日、子らを「バッファロー狩り」に連れて行く。
バッファローというのは、アメリカ野牛のことである。
保護生物とされながら、「何の役にもたたない」という理由で、「増えた数だけ狩猟の対象にされる」ことになっている。
バッファローを打ち殺す教官の横で、子らは「あの獣は僕らと同じだ」と実感する。
そうして、サマーキャンプを脱走する。
バッファローたちを救おうと
キャンプを脱走し、バッファローのいる場所へ。
物語はそんな展開をしていきます。
その旅の最中に、個々の子らの抱えていた問題が回想されていきます。
盗癖のある子の家が、裕福でありながらその子の飢えを何も満たしていなかったこと。
リーダーのように描かれている、癇癪持ちの子が抱えていた苦しみ。
夜尿症で劣等感を覚えるにいたった子の気持ち。
「ただ殺されるため」の獣に彼らがどうして思いを寄せたのかが、徐々に描かれていきます。
バッファローが、「保護」という名目の元に閉じ込められた場所。
子らは、バッファローを開放しようとフェンスの扉を開きます。
けれど、ただ一頭のバッファローも逃げません。
保護された生活に慣れ切ってしまったのです。
癇癪持ちの子が、バッファローの飼育場のトラックに飛び乗り、走り回る。
ようやく野牛たちは逃げ出し始める。
後に読んだ原作小説は、ここで終わっていたと記憶している。
けれど、映画化作品はさらに過酷な結末を突き付けてきた。
このラストシーンは、もっといろいろな方にご覧になって欲しい。
中学一年のときの僕は、このラストに泣いた。
そうして、こんな悔しさを一人でも多くの方に理解して欲しいと思った。
一般的には、もう忘れ去られた映画だと思うのだけれど、また今の子らが見返す機会があればと、そんなことを感じるのである。
2018年 11月 22日 奥主 榮